第三話 二人のママァの思い出


エチオピアでは、平均寿命が40~50歳ぐらいといわれています。

実際、本当のところは誰にもわからないような気もしますが…。

 

でもやっぱり、施設でも見た目は老人のようでも、若い子がほとんどで、50歳以上のかたはほとんどいないのが現状でした。

 

でも、二人だけかわいらしいおばあちゃんがいました。エチオピアでは、おばあちゃんのことをみんな誰のおばあちゃんでも「ママァ」って呼びます。(40歳過ぎるとママァになります。)

その二人のおばあちゃんはもちろん自分の年齢は知りません。

一人のおばあちゃんは、痴呆がでてきて、いつも一人で話をしています。

 

「ママァー、デナデラチュザレカヌゥコンジョーノ」

(おばーちゃん、おはようね。今日良い天気だねぇ。)

って話かけると、

「そうかね。私にゃー関係ないね。おなかがすいたよ。朝ごはんちょーだい」

って日本のおばあちゃんのように、ご飯たべたすぐあとでもお願いするのがいつもの感じで、かわいらしい感じでした。

身体が全身麻痺していたので、床ずれが起きないように、プリベンションパウダーをいつもパフパフしてあげていました。

 

もう一人のママァ、アスカママァは大きな床ずれがあり、そこが炎症を起こして背中の真ん中からおしり、肛門のまわりまで皮膚がただれてしまって、たくさんの膿とおしりの部分は骨が見えてしまっていました。

皮膚が腐ってバクテリアがたくさんになってしまっている部分は、メスで切り取ります。

あまりに範囲が広いので手当てもすごく時間がかかりました。

私が手当てにいくと、必ず一瞬にして狸寝入りをします。

それがかわいらしくてたまりませんでした。

私がメスで皮膚切っているときも平気で排泄するような感じの男前な感じのママでした。

 

ワーカーの子が

「アスカママァー チャラカのことすき?」ってきくと、「チャラカはすきだけど、メス持ったチャラカは、注射みたいに痛いからやだ」

って溜め息まじりに答えたり、

 

「ゴールドが欲しい おくれっ」と言ったり

 

私の髪の毛をひっぱって

「これちょーだいっ」て、ゆったりするようなおちゃめな感じのママでした。

 

エチオピアがイタリアに数年間だけ占領されていた時期になにかかかわりがあったのか、イタリア語が少し話せるようで、いつも私のことをセニョーラって呼んでくれていました。

 

あるとき、アスカママァのところに行くと、私の顔を見るなり、嘔吐しました。

アスカママァが吐いちゃうのなんて珍しいからどうしたのかなって思って、服を着替えさせてあげて、体を拭いてあげて、ママァ調子悪いのかな?って思って話しかけても元気がなく心配になりました。

 

でもやっぱり次の日の朝、亡くなってしまいました。もう一人のママァも数日後亡くなりました。二人とも体を自由に動かすことが完全にはできませんでしたが、ベッドが隣同士で、いつも二人で見つめあっていたのが印象に残っています。

 

 

亡くなる時にそばにいてあげることはできなかったけど、今までこの国で長く生きてこられた分、色んな辛い現実もみて経験してこられたんだろうなって思いました。

 

大嫌いだったカテーテルも治療も注射も終わって今は、ゆっくりされているといいなと思います。

 

  2007年4月12日 原題「エチオピアのお年寄りのこと」