第三話 不公平を感じるとき


ここの施設では毎週日曜日の朝だけ、外部からの人が会いにこれます。

日曜日の朝は少しだけ、患者さんみんなの様子が緊張しているのがわかります。

みんな お友達や、家族と自分で連絡するすべをもたないから、もしかしたら今週の日曜日、誰かが会いに来てくれるかもしれない…。って思ってベッドで動けない子も、家族も友達もいないってゆう子も外部の人が入ってくる大きな鉄の扉を気にしているのが雰囲気で私にもいつもわかって私までなんだか緊張していました。

 

逆に鉄の扉の外も、何日もかけてきた方や、何ヶ月も待ってやっと居場所がわかり会いにこれた方が入れるのを待っていました。

 

大切そうに小さなバナナを一つだけもって娘に会いにきたぼろぼろの服装で裸足だけど、目はきらきらしたおばあちゃんや、遠くの山岳地帯からやってきた部族の、親戚一同のかたとか本当にそんな光景をみているだけでいつもじーんとしていました。

 

日本の病院の病室と同じ光景で、みんなで一人の患者さんのご家族が持ってきたフルーツをわけあったり、挨拶したり。

 

中年のカップルの方が手に持っていたバナナを落として号泣しているのが目にとまりました。

 

その理由は、娘さんが亡くなってしまっていたためです。

娘さんの名前はブルトカンっていって24歳の女の子でした。

HIVポジティブだったのですが、上半身やけどした状態で、1週間前に運ばれてきたばかりの子でした。

 

村ではほとんどの家庭は薪をくべて火をおこして料理をします。

あと、電気がないため、火をおこしたり、夜間はとても冷え込むのであたたまるために火をくべます。

みんなが住んで居る家は、本当に日本の縄文時代のおうちです。

床はそのまま地面で、わらと木と動物の糞でできています。

火が大きくなりすぎてそのまま家ごと燃えてしまって、亡くなる人、おおやけどを負う人。

ブルトカンは、村を出てアディスにいて何かのきっかけで熱湯をあびてしまったようでした。

彼女は、たった1週間しか一緒に過ごさなかったけど、毎日、

「チャラカーラーメンアンチタファシムノナシノ?」

(さやかーなんでこんなにくるの遅いの?なんかあったの?)

 

ってやけどでただれた唇一生けんめい動かしていつも真剣な顔で聞いてきました。

 

彼女がきてちょうど1週間たった日の朝、その子のベッドにいくと、彼女が私に早口で何か言っていて、私にはなんて言ってるか理解できなくて、

 

「ブルトカン ザレムンデンノ?イクルタエネアルガバニ」

(ブルトカン 今日どうしたのかな? ごめんね。なんてゆってるかわかんないよ。)

 

そしたら、隣の患者さんが

「ブルトカン 死にたくないよ。助けて。死ぬの怖いって、ゆってるよ」

って教えてくれました。

 

えって思って、ブルトカンの顔に手を当てて様子を見てみました。

亡くなる直前に、ここまで言葉を話せる子は今までみたことなかったから大丈夫なんじゃないかなって思いました。

でも少しずつ少しずつ呼吸が、亡くなる前の呼吸に変わるのがわかりました。

 

ドクターを呼んでも、心電図?や呼吸器?(ごめんなさいなんてゆうのかわかりません…)のような機械はここにはなく、私もここへきたばかりの時はドクターを探しましたがたとえドクターが来てくれても、なすすべがなく他の患者さんやワーカーの子達とその子が天国に行けるように祈りを捧げるのが、みんなが出来る精一杯のことでした。

 

彼女の身体きれいにして、汗をたくさんかいている顔、きれいな布でふいてあげて、

「大丈夫だよ。安心してね」って、顔をなでなでして。

ブルトカンは私の手をすごく強い力でギュッって握っていて、呼吸は亡くなる前の呼吸だけどここまで強い力で私の手、握れているから大丈夫なんじゃないかな。ペインキラーの注射打とうかなって思って注射器とりに握られていた手を無理矢理はなして

「アスナロエネティニィッシュボハライマタンロ」

(ごめんね。少しだけまっててね。すぐもどるからね。)

とだけいって、注射器と薬品とりに違う部屋にいって、その帰りに、ワーカーの子が「新しい患者さんきたからその子の腫瘍みて」って言って、すぐ終わるだろうと思って、違う病室に入って、それからブルトカンのところに急いで戻りました。

でも、私が戻ったとき、口の動きも目の動きも止まっていました。

 

強く握られた手、なんで離しちゃったんだろう…。

側にずっといてあげればよかったのに…。

私馬鹿だ…。

ってすごく悔やみました…。

 

 

「チャラカーチャラカー」

って私の名前叫んでいた声が今でも頭に残っています。

 

 

その中年のカップルは、ブルトカンのご両親でした。

ずっとブルトカンが首都のアディスにいったきり2年間以上、連絡がとれなくて先日ワーカーの子が村に電話で連絡をいれて早速会いにきてくれたようでした。

あと2日早ければ、って思いました。

亡くなる直前でも最後に会うことできたのに…。

号泣して自分の髪の毛をむしりとる、女性をみてワーカーの子も、他の患者さんもみんな目に涙浮かべてました。

 

色んな生き方があります。それはどこの国に住んでいようとみんな色々です。

 

私の尊敬する人の本で、

 

みんな幸せと不幸せの入るポケットの大きさは同じ。

たくさん欲ばっても全部ははいりきらないよ…。

 

ってかいてあった言葉思い出しました。

 

でもここにいる子達は、あんまりに短い生涯で、あんまりに苦しんでいて。

 

その子の一生ずっとみてきたわけでは、ないからわかりませんが、生まれた場所、育ってきた環境、人生公平ではない気がしてたまりません。

 

2007年4月3日 原題「お友達、家族との面会」